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十字架の見えるテラスから(62)

先日、矢島揖子という女性の半生を描いた映画を見ました。三浦綾子さん原作の小説が93歳の女性映画監督、山田火砂子さんによって映画化されました。熊本の益城町出身の揖子が東京の女子学院の初代院長になり神様を信じる人となっていく姿が描かれていました。「われ弱ければ」という題名から分かるように、揖子も弱さを持った人でした。我慢強く、家事も育児も教師としての仕事もしっかりとすることができる人でした。しかしある時、自分がいかに罪人であるかを知ります。その場面がとても印象的でした。女子学院の院長となっても煙草を噴かしつつ院長室にいた揖子が女学生たちの讃美歌の歌声を耳にして思わず礼拝堂へと足を運びます。ところが煙草の火を消さずに部屋を出たのでぼや騒ぎになってしまうのです。讃美歌の澄んだ歌声と清らかな歌詞とは反対の自分の姿を嫌というほど見せつけられた瞬間だったのだと思います。しかし、揖子に対して与えられたのは、ぼや騒ぎを起こした罰ではなく、揖子を院長として迎えた女性宣教師ミセス・ツルーからの赦しの言葉でした。人は、罪人である自分を自覚するだけでは生きていけなくなってしまいます。そこに必要なのが赦しです。教会は、赦しを伝える場所として神様が建てられた場所です。罰よりも人を変える力のある赦しがあることを伝えていきたいと思います。