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十字架の見えるテラスから(68)

教会の墓前礼拝を終えて相模原にある墓地から帰ってきた夕方、外から子猫の泣き声が時々聞こえてきました。気になっていましたが、教会の敷地の中ではないと思って夜になるまで見に行きませんでした。しかし夜になっても泣き声が時々聞こえてきて、その声が悲しい声になってきたので、教会から牧師館へ上る外の階段の下に行ってみました。すると小さな生まれて間もない白い子猫が鳴いていました。とりあえず保護をしました。とても可愛い猫だったので、その日以来我が家の猫となりました。後日、ご近所の方が訪ねて来られ、そのお宅で餌をやっていた猫が親猫で、三匹子どもが生まれ、一匹が教会に迷い込んだとのことでした。保護した白い猫の避妊手術を最近行いました。小さな猫に手術をするのはとてもかわいそうな思いがしましたが、病院に連れていきました。手術を終えて病院から帰ってくると、とても苦しそうな顔をしていました。痛いし、怖かったし、どんな思いをしたのだろうとかわいそうになりました。この猫にとっては、初めての怖くて苦しい経験だったのでしょう。子猫だった顔から大人の顔になりました。その表情を見て、命ある者は苦しみや悲しみを経験して子どもの顔から大人の顔になっていくのだと気がつかされました。できれば苦しみや悲しみは避けて通りたいものです。でも、それが大人になっていくということなのであれば、私たちはそれを受け入れつつ生きていくしかありません。自分の痛みを経験して人の痛みを知ることも大人になるということなのだと思います。眉間にシワを寄せてしまうようなことが多い時ですが、私たちが共有できるのは痛みや苦しみだけではなく、喜びや感動も共有することができます。礼拝のなかで、共に神様のお言葉を聞き、共に讃美歌を歌う時、一人で完結することの多い日常から離れて、神様の前に喜びを共有する時が与えられます。