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十字架の見えるテラスから(88)

226日 説教要旨 「神の安息にあずかる」

創世記213    ヘブライ人への手紙4311 

 

1)主イエスの安息への招き

 今月はマタイによる福音書1128を招詞として礼拝をまもってきました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とのみ言の原文に、「わたしが」という言葉があります。み言は、休ませてくださる方が誰であるのかを、はっきりと記します。それは主イエスです。主のもとには、本当の安らぎがあります。

ヘブライ人への手紙は210で「万物の目標であり源である方」として神を描きます。わたしたちは、神のもとにとどまるときに、本当の幸福と平安を知るのです。アウグスティヌスは『告白』の冒頭で「我々の心はあなたのうちに憩うまで休まらない」と記しました。わたしたちは、幸せを求め、安らぎを探して人生を歩みます。聖書はその答えは、神であり、キリストであると教えてくれます。

 

2)ゴールに心を向ける

43で「信じたわたしたちは、この安息にあずかることができる」と明言します。迷いはありません。確実に、安息へ向かうのです。「信じた」という言葉は、一回限りの行為を表す動詞で、洗礼を意味します。洗礼は繰り返し受ける必要はありません。ただ一回だけです。パウロがロマ書64で語るように、洗礼は古い自分が葬られ、新しい命に生き始めることです。だから一回だけの行為です。

新しい命を歩み始めた者は、人生のゴールを知ります。そこでゴールに向かい懸命に歩みます。人生の途中には、多くの誘惑があります。それらはしばしば、わたしたちを別の方向に行かせよう、神さまから遠ざけよう、礼拝を妨げようとします。手紙は「気をつけましょう」:1、「努力しようではありませんか」:11と勧めています。

「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」:7は、詩編957の引用といわれます。ヘブライ語の原文では「今日そのみ声を聞くように」という言葉です。今日、わたしたちは神のみ声を聞こうと、勧めています。「今日」を設けなければ、神の声は日常の雑踏にかき消されてしまいます。今日は、それはまさに日曜です。ヘブライ人への手紙11は神が「かつて」語られ、いま御子によって語られていると記します。わたしたちは、教会で御子の招きを聞き、安息に向かって歩んでいくのです。