※3月19日 説教要旨 「丘の上の主の十字架」
イザヤ書53:4~5 コリントの信徒への手紙一2:1〜12
1)「丘の上の主の十字架、苦しみのしるしよ。ひとの罪を主は身に
負い、与えたもう、いのちを」イエス様の十字架を覚える受難節を歩
んでいますが、どのように歩めばよいのか迷うことがあります。イエ
ス様の十字架は苦しみのしるしです。では、受難節はイエス様と共に
苦しむ時なのでしょうか。受難節は、イエス様が確かに十字架におか
かりになり、私たちの罪をゆるしてくださったことを確信し、私たち
に命が与えられたこを改めて信じる時です。
2)「世の人々、あざけるとも、十字架はしたわし、小羊なる神のみ
子の苦しみを思えば」全ての人がイエス様の十字架の意味を理解でき
るわけではありません。パウロは「あなたがたの間で、イエス・キリ
スト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に
決めていたからです。」と書いています。パウロは幼いころから教育
を受けた知識が豊富な人です。それを全て捨ててでもイエス様のこと
を伝えたいと思っていました。イエス様の十字架こそ私たちの救いだ
からです。
3)「あらけずりの主の十字架、かぎりなくとうとし。われを赦し、
きよくするはただ主の血しおのみ。」この讃美歌の作者は、イエス様
の十字架について深く考えていたとき、あらけずりの十字架の意味が
示された経験からこの曲を作詞しました。イエス様の十字架は福音の
確信です。十字架には、私たち人間の罪が集まります。救いのない場
所は私たちの世界にもあります。戦争は最も多くの罪が集まる場所で
す。しかし、キリストを信じる私たちはそこにもイエス様の救いが必
ずあると信じることができるのです。
4)「悩みも死も、なにかはあらん。苦しみもいとわじ。さかえの朝
待ちわびつつ、にないゆかん十字架を。世の栄えうちすて十字架にす
がりて、ひとすじにわれゆかん。み救いに入るまで」イエス様の十字
架を思う時、私たちの悩みや死が小さなものに思えてきます。私たち
は世の霊ではなく、神の霊を受けて、イエス様の十字架の意味を知り
、イエス様が示してくださった神の国への道をひとすじに歩んで行き
たいと思います。