· 

十字架の見えるテラスから(108)

5月14日 説教要旨 「破られた隔て」

レビ記16:29~31 ヘブライ人への手紙9:1~14

 

 レビ記の16章29節以下を見ると、繰り返して「苦行」という言葉が出てきます。「第七の月の十日にあなたたちは苦行する」:29、「あなたたちは苦行する。これは不変の定めである」:31。「苦行」と訳される言葉は、旧約聖書で63回も使われています。レビ記16章は、イスラエルの人々が自らの罪と向き合うさまを、「苦行」と描きます。

 犠牲の動物の流す血は、罪の象徴です。人間の罪により、動物が血を流します。これは、過去の出来事にとどまりません。現在も廃プラスチックの犠牲になる海洋生物や、乱獲により絶滅の危機にある生き物がたくさんあります。私たちは多くの犠牲の上に、日々の生活を送っています。

 「苦行」という言葉を、関根正雄先生は「自らを空しくする」と訳しました。人間が浅はかで、空しい存在であることを、するどく描いているのです。虚構の繁栄に動かされる人間の様は、まさに空しいといえます。

 一方、ヘブライ人への手紙は、虚構の繁栄と対照的な、永遠の救いを語ってきました。人間を救うために、神さまがいかに手立てを尽くしてこられたか。その救いの変遷は、すでに1章で記されていました「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」:1~2。

 人間と出会うために、かつて神は「幕屋」を用いられました。これは出エジプトの際に、イスラエルの民と神さまが出会う神聖な場所でした。のちに幕屋は、神殿に変わりましたが、その構造は大きく違いません。幕屋の一番奥に、最も神聖な場所があり、そこは限られた大祭司が年に一回だけ入ることができました。これは神殿も同じでした。神さまと出会うためには、場所と人物が限られていたのです。

 イエス・キリストが十字架にお架りになった時、神殿の聖所の垂れ幕が、上から下まで真っ二つに避けたとヨハネを除く3つの福音書は描きます。聖なる場所と人間とを隔てる壁を、イエス・キリストは自らの命をもって裂いてくださり、私たちと神さまとがお会いできるようにしてくださいました。私たちは「苦行」することなく、救いに与かることが許されたのです。