5月28日 説教要旨 「キリストの血の尊さ」
レビ記17:10~14 ヘブライ人への手紙9:15~28
命を表す「血」
聖書は、命を血の中にあるものと示します。創世記4:10で「主は言われ
た。「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」とありま
す。アベルの失われた命を代弁するかのように、血が神さまに向かって復讐
の叫び声を挙げます。血が命を表すことは、ノアの物語にも描かれます「肉
は命である血を含んだまま食べてはならない」(創世記9:4)。血が流さ
れる時、それは命がささげられることを意味します。血の中にある命が失わ
れることで、代わりに命が救われる、それが代償という考えです。
代償としての血と「ゆるし」
ヘブライ書に「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」9:22とあ
ります。罪が赦されるためには、命がささげられる必要があります。それほ
どに、罪の代償とは大きなものです。
考えてみますと、私たちにとって「ゆるす」という行為は、簡単なことで
はありません。例えば誰かに酷く傷つけられると、私たちは簡単にそのこと
を忘れることはできません。怒りに囚われることは、結局は自分のためには
ならないと、分かってはいても、なかなか簡単に済ませることができませ
ん。現実に血を流さずとも、心のなかで血を流したり、あるいは涙という形
で、私たちは心を注ぎ出します。しかし本当の解決は、私たちが地上、自己
にとらわれているなかでは起こりません。心を天に向ける必要があります。
天の聖所
ヘブライ書は「キリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で
造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の
御前に現れてくださった」9:24と語ります。地上の神殿でささげられる動
物の血は、いわば「模倣」コピーです。本物の赦しは、天の聖所、神の居ら
れる場所で行われます。本物に与れるので、私たちの罪も、恨みも、怒り
も、きれいに流されます。地上の涙も血もいわば不完全ですが、キリストの
お流しになった血によって、すべてが解決すると信じて良いのです。