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十字架の見えるテラスから(118)

※6月11日 説教要旨 「主は教会の基となり」 詩編 50:1~3 エフェソの信徒への手紙 1:15~23

主は教会の基となり、みことばをもてこれを清め、われらを死よりときは たちて、仕うる民となしたまえり。」 イエス様は私たちの教会の基であり、エフェソの信徒への手紙によれば、 「教会の頭」でもあるお方です。みことばによって私たちはイエス様が私た ちのために十字架におかかりになり、死から解き放ってくださったことを知 ることができました。この方が私たちの基であり頭です。教会は、世にある 多くのグループとは違い、イエス様が先頭にたたれ、しんがりを守ってくだ さいます。

「世界の民は集められて、ひとつのからだ、ひとつの糧、ひとつの望み、共 にわかち、ひとりの神のみ民となる。」 イエス様によって私たちはひとつの民となることができます。ひとつとな って神様に賛美歌を歌うとき、私たちの歌声は真実を伝える力を持ちます。 礼拝のなかで歌う讃美歌は、私たちをひとつの民とし、神様に仕える力を与 えます。

「憎みあらそいわれらを裂き、人はあざけりののしるとも、神はわれらの叫 びを聞き、なみだにかえて歌をたまわん。」 讃美歌390番は、英語の歌詞では、使徒信条もとに書かれた歌詞が12 番まであったそうです。この讃美歌が作られた当時、キリスト教の教理に関 する論争がありました。何が正しい信仰であるのか、それを伝えるためにこ の讃美歌は作られたのです。「憎みあらそいわれらをさき」と歌われている ように、教会のなかでも憎みあってしまったり、争ってしまうことがありま す。それはとても辛いことです。しかし、苦しみを乗り越えたときには、神 様は涙をそのままにはせず、賛美の歌声へと変えてくださる方です。

「世にある民も去りし民も、共にまじわり、神をあおぎ、永遠の勝利を待ち のぞみて、イエスの来ますをせつに祈る。」 教会では、今ある教会の友との交わりを大切にします。それと同時に、す でに神様のもとへと召された方たちのことをいつも家族のように覚えていま す。イエス様を頭として一つとなった民は、死を超えて、時間を超えて交わ り、お互いを思うことができるのです。そして、私たちは待ち望んでいま す。イエス様が再び地上においでになり、すべてのものを完成させてくださ ることを。その時まで私たちは地上の歩みをイエス様が共に歩んでくださる ことを信じて歩んでいきましょう