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十字架の見えるテラスから(120)

※6月18日 説教要旨 「キリストを通ってゆく」 イザヤ書57:14~19 ヘブライ人への手紙10:19~25

1.「できる」ということ

今朝の箇所の別の翻訳では、繰返し「できる」という言葉が使われている ことに目が留まりました。たとえば19節は「では、兄弟たちよ、私たちはイ エスの血の力で、大胆に入っていくことができる」とあります。これを読ん で、改めて、これが聖書のメッセージだと気がつかされます。聖書は、わた したちに「あなたは、できる」と言ってくれます。これは言い換えれば、わ たしたちへの肯定のメッセージです。わたしたちは、キリストの尊い犠牲を 与えられました。ですから、わたしたちは神さまから全面的に愛され、認め られています。誰も、何ものも、恐れることはありません。

 

2.清められる

22節は、わたしたちが清められたと語ります。「清い」という言葉が2度 繰り返されています。2度目の「体は清い水で洗われています」にある「清 い」は、本来神さまに献げる犠牲に対して使われる言葉で、混じり物のない 純粋なものを指しています。わたしたちは、自分の心の不純、醜さを知って います。けれども、その醜さ、罪を御子キリストは完全に拭い去ってくださ いました。洗い清めてくださいました。19節は「イエスの血によって聖所に 入れると確信しています」と語ります。この「確信している」という言葉 は、4章16節で「大胆に」と訳されている言葉です。わたしたちは、自信を もって、大胆に、何も恐れることなく、神さまに近づくことができます。

3.キリストを通って 今朝の箇所について、バークレーは「われわれはバッキンガム宮殿まで人 を案内することはできても、女王の前にその人を連れて行くわけにはいかな い」と言っています。実際に、女王に会うためには間に入ってくれる人が必 要です。その人には権限があります。御子イエス・キリストは、私たちが神 さまに出会うための権限をもっておられます。20節「御自分の肉を通って」 と、ご自分の犠牲によって神さまに出会わせてくださったのです。