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十字架の見えるテラスから(143)

9月17日 説教要旨 「命の道をゆく者」 詩編16:7~11 ローマの信徒への手紙8:31~39 旧約における死の理解 詩編16:11に「命の道」とあります。これは先の10節にある「陰 府」「墓穴」との対比です。旧約聖書では陰府は、死者の国であり、 帰り道のない国です。ヨブ記に「人も陰府に下れば もう上ってくる ことはない」(7:9)とあります。ヨブは人間の命の儚さを語りま す。7:1~2で人生は苦役のようなものであり、人間は奴隷のようで あると言います。死にとらえられ、死の影に怯えつつ生きる。それが 人間です。旧約聖書は、人間の生と死を悲観的に描きます。人は死ね ば陰府に下り、そこは一方通行で戻ってくることはできません。

詩人の信仰 このような死の理解に、今日の詩編16編は真っ向から向き合ってい ます。死がいかに猛威を振るおうとも、詩人は決して動揺しないと言 います。それは詩人の「わたしは揺らぐことがありません」(:9) の言葉に現れます。 主イエスはマタイによる福音書で「家と土台」の例え話をされまし た(6:24~ p.12)。そこで語られているのは、私たちが人生を堅 固な土台の上に建てるのか、それとも砂のように不確かなものの上に 建てるのかでした。死という大嵐が来た時でも、動揺しないと語るこ とができると詩人は語ります。

右におられる神 8節で「主は右にいまし」とあります。右とは利き手です。神が自分 の利き手側に立っておられるということは、私たちは利き手を塞がれ ているということです。私たちが自分で武器を取って戦う必要はない のです。神が戦ってくださることを詩人は知っています。安心して神 に全てをお委ねしています。全てを神にお任せする時に、詩人は心の 動揺から解き放たれます。安心して「憩」うことができるのです。