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十字架の見えるテラスから(165)

12月3日 説教要旨「主が目を留められる」 創世記18:12~14ルカによる福音書1:5~25  

 

今日の聖書の箇所には、ザカリアとエリサべトという祭司の家系に 生まれた真面目に生きてきた年を重ねた夫婦が登場します。聖書に 「非のうちどころがなかった」と書かれているように、ザカリアとエ リサべトは、律法を守り、正しく生きていました。しかし、彼らには 子どもがいませんでした。非のうちどころがないほど律法を守ってい たのに、祝福である子どもを授かることがなく年老いた夫婦の姿は、 人生の理不尽さを表しているのではないでしょうか。なぜなら、私た ちは「こうすれば、こうなる」ということを求めるからです。  

 

ところが、この夫婦に全く新しい出来事が与えられます。天使ガブ リエルによって、男の子が生まれることが知らされました。しかし、 ザカリアは、祭司として普段は入れない聖所で天使に会ったにも関わ らず、天使の言葉を信じることができませんでした。「自分は年を とっています。」神様に出会う時に、人間は自分の弱さと向き合いま す。そして自分の弱さを嘆くしかなくなってしまいます。しかし、神 様のお言葉に対して嘆いてばかりで良いのでしょうか。天使ガブリエ ルは、ザカリアが神様のお言葉を信じなかったので、ザカリアの口を きけなくしてしまいます。  律法を信じていても、非のうちどころがなくても、神様の前にザカ リアは弱い人間でした。しかし、彼は天使の前から逃げ出すことはし ませんでした。だからこそ、ずっと祈って待っていた男の子の誕生を 喜ぶことができたのです。この時生まれた子はヨハネと名付けられ、 やがて洗礼者ヨハネとして人々の前に出てきて、イエス様に洗礼を授 ける人になります。  

 

 律法を守ることは大事なことです。しかし、守っていても心に神様 への信頼がなければ、律法は意味のないものになります。律法の言葉 だけでは信じられなかった人間に、神様は言葉が肉となって生まれて きてくださったイエス様を与えてくださいました。その喜びが、洗礼 者ヨハネの誕生にも表されているのです