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十字架の見えるテラスから(185)

2月11日 説教要旨 「共に食する」 列王記下6:18~23 ガラテヤの信徒への手紙2:7~14

食事をされる主イエス 福音書は、主イエスが人々と食事をたびたび共にされたことを描き ます。弟子たちだけでなく、大勢の群衆にパンを振る舞われたり、徴 税人や罪人、娼婦たちと食卓を共になさったことも描かれます。主イ エスの周りには、いつも人々を受け入れる受容の姿勢、やさしい空気 が流れていたことがわかります。 ポスト・コロナを生きるわたしたちは、改めて福音書が描く主と共 に囲む食卓の意味を、受け止める必要があります。食事を共にすると は、単にお腹を満たすことにとどまらず、同じ時間を過ごし、共に生 きることを意味します。喜びや悲しみを分かち合い、慰め合うので す。主イエスの周りには、まことの「共感」があったのです。

パウロが大切に思うこと 今朝の箇所で、パウロは兄弟子ともいえるペトロとの衝突について 語っています。これまでペトロは異邦人キリスト者(おもにギリシア 人)と共に食事をしていました。けれども、エルサレムからユダヤ人 キリスト者たちが来たとたん、急に異邦人キリスト者にそっけない態 度を取るようになり、共に食卓につかなくなったというのです。 パウロは、このペトロの振る舞いに疑問を投げかけます。ギリシア 人もユダヤ人も、共にキリストに招かれているのですから、同じ食卓 を囲むべきではないかと、パウロはペトロに迫ります。13節でパウロ はペトロのふるまいを「見せかけの行い」と呼びます。これは「演じ る」という意味の言葉で、偽善を意味します。14節では「まっすぐに 歩いていない」といいます。神の方を向かないで、人間の顔色を気に するから、歩みが曲がってしまうのです。 信仰者は目指すべき方を知っています。神さまに向かって歩むなら ば、私たちの歩みは確かにされ、まっすぐに生きることができます。