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十字架の見えるテラスから(189)

※2月25日 説教要旨 「何ものにも替え難い」
詩編51:18~19 ガラテヤの信徒への手紙 2:15~21 
おおやけに義とされる ルカによる福音書18:9~14は、対照的な2人を例にお語りになった主の たとえ話です。律法を守っていると自負するファリサイ人と、罪人の自分を 悔いる徴税人の2人のうち、神さまが「義」とされたのは、徴税人の方でし た。

恩寵のみ SOLA GRATIA この物語は、信仰の本質を語ります。信仰とは、自分の正しさ・功績を捨 て、無力な自分を神さまに受け止めて頂くことです。信仰は努力の世界では ありません。神さまは、何も誇れない者をこそ愛されます。自らを悔いる徴 税人が、神さまに受け入れて頂いた恩寵(恵み)です。宗教改革の精神は、 私たちが恵みによって生かされているということ、SOLA GRATIA(ただ恵 みのみ)です。

キリストの信仰(真実)によって ガラテヤの教会を混乱させていたのは,律法の実行を救いの条件としてい た人々です。本日の箇所の表題に「すべての人は信仰によって義とされる」 とあります。「律法の実行」ではなく「信仰」によってです。けれども、こ の信仰は「誰の」信仰なのでしょうか。原文を参考に見てみます。 2:16に「イエス・キリストへの信仰」とあります。この言葉は原文では 「イエス・キリストの信仰」です。私たちの(キリストへの)信仰ではな く、キリストの(神への)信仰が、私たちを救うと語るのです。そこで最新 の聖書協会共同訳は「信仰」と訳された単語ピスティスを「真実」とし、16 節を「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キ リストの真実によるのだ」と訳しました。義としてくださるのは、私の信仰 ではなく、「キリストの真実」、キリストの恵みだというのです。これは、 私を超えた確かなものによって、私たちが救われることを意味します。私が 確信を持てない時でさえ、キリストの恵みに包まれ、救われる確かさです。