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十字架の見えるテラスから(193)

3月10日 説教要旨「馬槽のなかに」イザヤ書53:1~5

フィリピの信徒への手紙2:6~11

番「馬槽のなかに、うぶごえあげ、木工の家にひととなりて、貧しきうれい、生きるなやみ、つぶさになめし、この人を見よ。」イエス様が経験された出来事の中で、印象的なものを一つ選ぶとしたら、どの場面を選ばれるでしょうか。私は、イエス様とサマリアの女性の出会いを選びます。サマリアの女性はイエス様に出会って、自分を取り戻し、他者との関係も回復していきます。それは、イエス様がこの人の貧しきうれい、生きるなやみをその目と心で見て、知って、深く憐んでくださったからです。2番「食するひまもうちわすれて、しいたげられしひとをたずね、友なきものの友となりて、こころくだきし、この人を見よ。」誰でもイエス様に出会う人は、最初は人間としてのイエス様に出会います。しかし、やがてイエス様は自分たちと同じ人間ではないことに気が付かされます。そして、この方は神であると信じるようにされるのです。なぜなら、イエス様が出会った人たちのために心を砕き、友となってくださったからです。3番「すべてのものをあたえしすえ、死のほかなにもむくいられで、十字架のうえにあげられつつ、敵をゆるしし、この人を見よ。」イエス様は、私たちがもう一度神の形に造られた者であることを思い出すために、十字架で死んでくださいました。ご自分は、神の形でありながら、僕の形となってくださいました。それは、全て私たちのためでした。神の形と僕の形は全く違うものです。ピラトはイエス様に死刑判決を下すとき、イエス様を人々の前に連れてきて「見よ、この男だ」と言いました。「この人を見よ」と繰り返し歌われるこの讃美歌の歌詞は、このピラトの言葉を引用しています。4番「この人を見よ、この人にぞ、このなき愛は、あらわれた流。この人を見よ、この人こそ、人となりたる活ける神なれ。」ピラトの言葉には信仰はありません。「この人を見よ。」とは、イエス様に出会った時、イエス様を人として見て、そこで終わってはいけません。人ではなく、この方は神であるとわかった時、私たちの人生はサマリアの女性のように変えられていくのです。