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十字架の見えるテラスから(197)

3月24日 説教要旨「十字架のもとに」イザヤ書25:4~5

コロサイの信徒への手紙1:18~23

1番「十字架のもとにわれは逃れ、重荷をおろしてしばし憩う。あらしふく時のいわおのかげ、荒野の中なる我が隠れ家」1954年版の讃美歌の歌詞では「十字架のもとぞいとやすけき、神の義と愛のあえるところ。」という歌詞でした。神の義は、罪に対する厳しさを含みます。イエス様は十字架によって、罪に対する厳しい裁きを人間の代わりに引き受けて下さいました。そこに愛があります。十字架は、神様の正しさと神様の深い愛が示される場所です。イエス様が裁きを担ってくださった故に、私たちは神様の愛に出会うことができます。

2番「十字架の上にわれはあおぐ、わがため悩める神のみ子を。たえにも貴き神の愛よ。はかりも知られぬ人の罪よ。」

イエス様は、十字架から逃げることもせず、人間に対して諦めを感じておられたわけでもなく、ご自分の使命を知って十字架へと歩まれました。十字架の上で苦しまれるお姿は、想像しただけでも苦しく、悲しい場所です。私たちは、イエス様の苦しみと悲しみを知っても、自分が代わりに十字架にかかることもできず、その痛みを知ることもできません。はかり難い、人間の罪が私たちのうちにもあるのです。

3番「十字架のかげにわれは立ちて、み顔のひかりをたえず求めん。この世のものみな消ゆるときも、くすしく輝くそのひかりを」私たちの教会の十字架には、イエス様のお身体はありません。十字架は、イエス様の復活の十字架だからです。戦争の瓦礫の中に建てられた十字架や戦争や災害でたくさんの人が亡くなり、そのお墓に建てられた無数の十字架を見るとき、私たちは十字架によって光を見出したい思いで十字架を見つめます。神の独り子が嘲られ、薔薇の冠を被せられ、十字架につけられる。それ以上に悲惨で悲しく苦しい場所はないのではないでしょうか。十字架のもとにいた百人隊長は「この人は本当に神の子」だったと言います。また十字架を見ていた人たちは、胸を打ちながら俯いて帰って行きました。自分では光を見出せなかったからです。しかしイエス様は復活し、私たちの光となって下さいました。