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十字架の見えるテラスから(201)

エゼキエル記37:15~23 ガラテヤ信徒への手紙3:21~29 「一つの神の民」

一致のしるし 今朝のみことばに「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もな く、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがた は皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(28節)と記さ れております。バークレーはこの箇所の解説で、ユダヤ人の朝の祈り の文言を紹介し、その違いを際立たせています。それは「神よ、あな たはわたしを異邦人や奴隷や女に造られなかったことを感謝します」 という祈りです。びっくりするような内容です。けれども、たしかに エルサレムの神殿は、五つの隔てがありました。祭司だけでなく、男 女、異邦人といった区別があり、内側にいくにあたって、より宗教的 に高位の者が入れたのです。ユダヤ教の精神を分断と見るなら(残念 ですが、戦争の報道を見るにつけ、そう考えてしまいます)、キリス ト教の精神は一致・和解といえるのではないでしょうか。もちろん、 完全にとは言いません。けれども、キリストが和解を示してくださっ たことに倣い、キリストを目指して歩んでいくのです。

キリストを着る 27節でパウロは「あなたがたは皆、キリストを着ている」といいま す。これは洗礼の際の伝統をあらわしています。ヨハネ黙示録3:4~ 6に洗礼を受けた者が、白い衣を与えられるとあります。新しく生き る象徴として、白い衣が描かれます。 洗礼は新生と言われます。けれども、過去の自分を完全に否定する のではありません。その上から、しかしキリストに覆っていただく、 新しくされるのです。過去を否定するのでなく、過去の痛みや、挫折 や迷いや罪を、そのまま受け止めながらも、さらにその上からキリス トに従う人生を選んで、歩んでいくとパウロは教えています。その時 わたしたちは、キリストにあって「ひとつ」とされるのです。