· 

十字架の見えるテラスから(203)

ホセア書2:1~3 ガラテヤ信徒への手紙4:1~7 「神の子とされて」

「神の子」という言葉 「神の子」という表現は、旧約聖書では8回しか出てこないのに、 新約聖書では64回も出てきます。この多くは、イエス・キリストに向 けて語られますが、なかには私たちに向けて語られる時もあります。 今朝の箇所の5節が、そのひとつです。あるいは、山上の説教で、主イ エスは平和を実現するものを「神の子」と呼ばれると説教された(マ タイ5:9)ことを思い出します。主イエスは平和の君です。そして主 の働きに召される者は、同じように平和を愛し、神の子と呼ばれるの です。

 

人の子であられた主 ガラテヤ書4:1~3でパウロは、キリストが来られるまで、私たち は未成年であったと語ります。律法に従って生きるものを、未成年で あり、自分で判断することができないといいます。パウロは、律法だ けでなく、それをさらに広げ「世を支配する諸霊」(3節)によっ て、私たちが囚われていたといいます。律法にせよ、諸霊にせよ、私 たちはその奴隷であり、甚だ不自由であったというのです。 けれども続く4節で、そのような未成年の時代が終わり、囚われか ら解放されたことを告げます。「時が満ちて」神は、ご自身のひとり 子を世にお遣わしになりました。律法のもとで神の子が生きられたこ とにより、律法が終わりを迎えるのです。 イエス・キリストは神の子でありながらも、人としてお生まれにな り、律法の支配のもとに生きてくださいました。私たちが神の子であ ると同じように、キリストは人の子となって、私たちと同じように生 きてくださったことを意味します。 不条理を思う世界の中でも、そこにキリストが身を置かれたことを 思い出して、いきたいと思います。